「論理哲学論考」におけるオブジェクト指向

最近、

を読んでいて、とてもオブジェクト指向的な考え方を垣間見たのでここにまとめておく。

二.〇二三一
対象を捉えるたえめに、たしかに私はその外的な性質をとらえる必要はない。しかし、その内的な性質のすべてをとらえなければいけない。

野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』

ここで、「対象」というのは「論理哲学論考」(以下「論考」)においてはテクニカルタームだ。
まず、世界に起こっている事実、または起こりうる事(これを事態と呼ぶ)を何らかのカタチで表現したもの、これを「像」と呼ぶ。

「あの机の上のリンゴは赤い」

という文章があるとき、文字でリンゴと書かれているように見えるのは、僕たちが文字になれきっているせいだ。
ここでは、「このリンゴ」という対象は、「今あなたが見ているディスプレイの黒点の集まり(「このリンゴ」という文字に見える)」という「像」となって表現されている。(意味をあらわす何らかの表現であれば、像と呼ぶには十分であるが)

こんなところで、今回の説明には十分だ。(「捉える」の定義や、もっといろんな事がとても気になる人は、上記の本を読むことをお勧めする)

ここで問題となっているのは「対象」の性質を記述するために出てくる「外的」「内的」という言葉だ。

外的な性質

外的な性質とは、その性質が変化したとしても、その対象がなお同一であり続ける性質のことを言う。
たとえば、先の例で言えば机の上にあったリンゴの位置を変化させても、そのリンゴはそのリンゴだ。
また、そのリンゴが青かったらと事実に反することを想像してみても、そのリンゴはそのリンゴだ。
こんな風に「位置」だったり「色」だったり、「味」なんかもそうだ。僕たちが普通「性質」と呼ぶものは
「外的」だと考えられる。

オブジェクト指向でいえば、属性に入っている値に対応するかのようだ。
リンゴクラスのあるオブジェクトを作って、机の上に置いたとすると、オブジェクトとの属性としてはさしあたり、

  • color=赤
  • location=机の上

こんなところ。

内的な性質

外的とは逆で、内的な性質というのはその性質を持っていないとすると、同一性が失われてしまう性質を言う。
たとえば、「何らかの色を持つ」という性質がそうだ。「色を持たない」リンゴというのは想像し得ない。だから、
この性質は内的だ。という具合だ。これ以降、この内的な性質の表現を論理形式と呼び、それを『捉える』ということに
論点が移行していっている。

話をオブジェクト指向にもどすと、内的な性質というのは、オブジェクト指向の言葉でいえば、
「リンゴオブジェクトには色という属性が存在する」という風に、リンゴというクラスの構造を定義していると見ることができる。

class リンゴ{
 色 color;
 位置 location;
}

こんな風だ。

まだ、僕が読み進めている段階ではメタクラスの概念は出てきていないのだが、単純に考えて「論理形式の内的な性質」というのが
さしあたって、メタクラスになるかと思う。




オブジェクト指向モデリングを行うということは、諸対象の世界(ここでの対象は通常の意味)を「どう見ているか」を表現することじゃないだろうか。だとすると、世界をどうとらえるかという問いに真っ向から立ち向かっている哲学に学ぶところが多いのは共感できる。ウィトゲンシュタインの著作にもオブジェクト指向的な考えが垣間見られてとても楽しかった。