マインドはプロセスを生み、プロセスはマインドを育てる。〜マナーとルールに見る関連性〜

最近、アジャイルマインドという言葉をよく目にする。
そしてマインドと対極的な位置にあるのがプロセスやプロトコルという言葉じゃないだろうか。

最近マナーとルールについての興味深い記事があった。これはマインドとプロセス(プロトコル)にそのまま当てはまるように思う。
プロトコルが無くなった場合のマナーの無力化は多少言いすぎなように個人的には感じるがおおむね賛成だ。

高速道路が渋滞している時に、合流の所でお互いに譲りあって一台づつ交互に進めば全体として一番早く進む。我先にと進路を奪いあえば、流れは滞るし、接触事故なども起きやすく、平均の流量は最低になる。

この譲りあいの暗黙のルールが守られる度合いは地域によって違うと聞いたことがあるが、自然発生的にそれができていれば、自分が譲ってもすぐ次に行けると期待できるので、自然と譲る人が多くなるだろう。

「一台づつ交互に」というのはマナーでもあるがプロトコルでもある。

プロトコルが存在していれば、ドライバーの平均のマナーレベルが低くても、つまり、他人より自分を優先して考える人が多くても車は進む。その逆に、譲る気持ちを持ったドライバーの存在密度が高くても、プロトコルがないとマナーのレベルの低いドライバーの行動様式が全体を支配する。

プロトコルが存在しない所にプロトコルを確立するには、マナーが必要である。だが、すでに確立しているプロトコルとマナーが同時に崩壊していく時代に生まれたとしたら、どちらを優先して守るべきかははっきりしている。

プロトコルを守っていけばマナーが低下しても秩序は保たれる見込みがあるが、プロトコルが崩壊したら、マナーの有無はほとんど無意味になる。プロトコルを守るべきだ。

罵倒から生まれる公共性 - アンカテ(Uncategorizable Blog)

そうなのだ。
現在アジャイルマインドと呼ばれている多くのマインドは確かにすばらしい。そして、それらのマインドを広めることの重要性を認識しない人はいないだろう。

しかし、マインドだけ語られるとき、アジャイルマインドという言葉がニュースに踊る時、常にどこかにもやもやがあった。
「本当にマインド"だけ"でよいのだろうか。」と。

そして、昨年のオブジェクト倶楽部クリスマスイベント後の懇親会(PFP冬の宴)で

マインドが「プロセス」を生み出し、「プロセス」がマインドを育てる。

という話をした事も、それに由来する。マナーとルールという関係がきれいにこの構図に当てはまっているのだ。

現実問題、マインドだけでは、マインドを持たない人(すなわちマナーの悪い人々に対応する)の悪影響を排除できないのではないのだろうか。引用例をみてもそれは明らかだ。交通ルールはマナーだけでは絶対に秩序は保てないのだ。

だからこそ、ルール(プロセスやプロトコル)を用いて、マインドを持たない人の悪影響を抑制しつつ彼らにマインドを植え付ける必要があるのだ。これはマインドを広めるためにも十分に有効な方法だと思う。

芽生えさせるというのは少々言い過ぎかもしれないが、マインドを持たない人々に、マインドを芽生えさせ・熟成させるのがプロトコルやプロセスの真の役割だと僕は思う。だから良いプロトコルや良いプロセスはそのような性質を持つべきだ。

最近「マインド」という言葉が踊っている、そのこと自体に異論は全くない。
しかしながら、「マインド」という言葉が踊っているのを目にするたびに僕の中に生まれていたもやもやがこれできれいに晴れた気がする。


そう、「マインド」と「プロセス」は一緒に語られるとき、初めてその真価を発揮するのだと思う。
そう、まるでダンスを踊る男女のように。